1台のテレビに2万人が熱狂した時代

昭和29(1954)年2月19日、東京・新橋駅の西口広場に群衆が押し寄せました。デモでも暴動でもありません。みんな、テレビが見たかったのです。そう、“街頭テレビ”です。
この日、日本初となるプロレスの本格的な国際試合が蔵前国技館で行われました。力道山と木村政彦がタッグを組み、アメリカで活躍していたシャープ兄弟を相手に熱戦を繰り広げたのです。そしてその様子は、前年に開局したテレビ局によって生中継されました。
テレビがまだ高級品で一般家庭に普及していない時代のこと、テレビ見たしプロレス見たしと集まったのは蔵前国技館の観客を上回る2万人。ときは戦後の復興期、屈強な外国人をなぎ倒す力道山の空手チョップに人々は大熱狂しました。後に“日本プロレス界の父”と呼ばれる力道山は、テレビが生んだ最初のヒーローといえるでしょう。
国産初の白黒テレビは17万5000円
昭和28(1953)年2月1日、日本で初めてNHKがテレビ本放送を開始しました。当初の受信契約数は866、受信料は月額200円だったそうです。次いで同年8月28日、日本テレビが民間放送として初のテレビ放送を開始しています。翌年、プロレスを生中継したのもこの二つの放送局です。
このころは高度経済成長期の“前夜”。「三種の神器」は洗濯機、冷蔵庫、掃除機で、テレビはまだ一般家庭にありません。当時、アメリカから輸入していたテレビは17インチで25万円前後。テレビ放送の開始に合わせて1月に早川電機工業(後のシャープ)が国産初の白黒テレビを発売しましたが、それでも価格は17万5000円。高卒の初任給が5400円だったそうですから、給料の30倍以上です。
そこで、日本テレビの社長を務めていた正力松太郎氏が前述の街頭テレビを発案。テレビの普及促進と広告価値の向上などを目的として、都内や近郊の53カ所に計220台ものテレビを設置し、誰でも無料で見られるようにしたのです。その黒山の人だかりは、戦後の日本を象徴する風景の一つとなりました。
高度経済成長期に入ると電機メーカー各社から国産テレビが相次いで発売され、街頭からお茶の間へ、テレビは急速に普及していきます。
テレビ受像機の歴史は100年以上
「遠くにあるものを見てみたい」というのは、人類にとって大きな夢だったのでしょう。19世紀末から20世紀前半にかけて、世界各国の研究者がテレビ(受像機)に関するいろいろな技術や機器を研究・開発しました。今日のテレビは、その集大成といえそうです。つまり、テレビの発明者を一人に絞ることはできないのですが、世界で初めてテレビ“的”なものをつくったのは、イギリスの電気技術者で発明家のジョン・ロジー・ベアードといわれています。
ベアードは1925(大正14)年に“機械式テレビジョン”なるものをつくり、動く物体を遠距離放送しました。つまり、A地点にある動く物の映像を電気信号としてB地点に送り、それをB地点で見ることに成功したのです。当時は、まるで魔法のようだったのではないでしょうか。
世界初の電子式映像表示は「イ」
今の薄さからは想像できないほど、昔の“ブラウン管テレビ”は重厚な箱型でした。昭和の時代は、どこの家庭でも必ずといっていいほど、レースのカバーを掛けていました。古くなるとよく映像が乱れるのですが、そんなときは手でバンバン叩くと、なぜか直りました。
それはさておき、ブラウン管とは何かをごく簡単に説明すると(ごく簡単にしか無理ですけれど)、電子ビームを蛍光面に当て、その発光によって電気信号を光の像に変換する特殊な真空管だそうで、1897(明治30)年にドイツの物理学者カール・フェルディナント・ブラウンが発明しました。
このブラウン管を使って、現代のテレビやスマートフォンの技術につながる発明をしたのが、日本の工学者である高柳健次郎博士です。
高柳博士は郷里の浜松高等工業学校(現、静岡大学工学部)でテレビジョンの研究を始め、2年後の大正15・昭和元(1926)年、世界で初めてブラウン管に電子式映像を表示しました。映し出されたのは「イ」の文字。イロハニホヘトのイです。たった一文字ですが、世界初の電子式テレビジョンの誕生です。このとき高柳博士は27歳。その後はテレビ放送などにも貢献し、日本では「テレビジョンの父」と称されています。
世界に誇る発明が日本人の手で成されたのは誇らしいものですね。さて、テレビ技術の進化は今後、私たちにどんな夢を見せてくれるのでしょうか。








