江戸時代は暗かった?
2022年3月、東京電力・東北電力管内において「電力需給ひっ迫警報」が初めて発令され、政府から節電が呼び掛けられました。その主な原因は、福島県沖を震源とする地震の影響で一部の発電所が停止したことと、季節外れの気温低下によって電力需要が増加したことだそう。今や私たちの暮らしに電気を欠くことはできません。朝起きてから夜寝るまで、眠っているときでさえ電気エネルギーが必要です。それが足りないとなると、あらためてその重要性に気づかされます。
ちなみに、日本で初めて電気の明かりがともったのは1878(明治11)年3月25日。ちょうど今から144年前ですから、大昔というわけでもありません。では、電気のない時代の人々はどのような生活をしていたのでしょう。今回は江戸時代にタイムスリップです。
夜になったら寝る
江戸の町に暮らす庶民の約7割は、裏長屋と呼ばれる賃貸の集合住宅に住んでいました。標準的な間取りは間口が9尺(約2.7m)で奥行きが2間(約3.6m)の、俗に“9尺2間”と呼ばれたタイプ。その中に土間と台所があり、家財道具を置けば実質4畳半もないワンルームに家族で生活していました。もちろん風呂なし、共同トイレ。電灯もテレビもスマホもなく、日の入りとともに寝て、日の出とともに起きるのがこの時代のライフスタイルです。
米はカマドで炊く
江戸時代の中頃には1日3食が定着していたようですが、米を炊くのは朝だけ。家の外にある共用の井戸からくんできた水で米をとぎ、“へっつい”と呼ばれるカマドで火おこしから始めます。米が炊き上がるまでは火の面倒を見ていなければならず、時間と手間のかかる作業というか、主婦にとっての重労働だったようです。
ちなみに、献立の基本はご飯と味噌汁と漬物の一汁一菜か、そこに豆腐や納豆、メザシなどのおかずが1、2品付く程度で、とにかく白米をたくさん食べていたのだそう。
手紙は人が持って走る
電話もメールもない時代、人々の通信手段はご存じ「飛脚」です。長い棒の付いた小箱を肩に抱えて街道をひた走ります。幕府の公文書を運ぶ「継飛脚」、諸大名が江戸藩邸との連絡に用いた「大名飛脚」、そして町人たちが利用した「町飛脚」がありました。仕立と呼ばれる、いわゆる特急便は江戸・大坂間をわずか3日で走ったといいます。料金は、一説によると金7両2分。時代劇でよく見る金色の小判が7枚です! 現代の貨幣価値にあえて置き換えると約75万円もするそうですが、商人たちがよく利用したのだとか。
行灯の明るさは豆電球
日の入りとともに寝るとはいえ、夕暮れにはもう薄暗く、月が出ていない夜などは本当に真っ暗闇でしょう。そこで活躍したのが行灯(あんどん)です。立方形や円筒形の木枠に和紙を張り、その中に入れた油皿に火をともす据え置き型が一般的でした。石油はまだ使われていません。ロウソクはありましたが、庶民にとっては高価な贅沢品でした。では燃料はというと、動物や植物の油。菜種油や魚油などですが、庶民はもっぱら安価な魚油を用いたそう。ただし、煙と生臭さが難点だったとか。そして肝心の明るさは、現代の豆電球くらいだったといわれています。それでも人々は明るく元気に暮らしていたとさ。
(参考:『図解!江戸時代』三笠書房、『江戸のひみつー町と暮らしがわかる本ー』メイツ出版、他)